テーマへの挑戦と作品評価は全く別だという事がイマイチ理解されなくて辛い『トイ・ストーリー4』

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<注意>『トイ・ストーリー4』のネタバレ

『トイ・ストーリー4』の賛否が割れている。近年賛否が割れた大作映画として記憶に新しいのが2015年公開の『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』と2017年公開の『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』だ。

 

『進撃の巨人』は原作ファンに、『最後のジェダイ』は旧3部作のファンにフルボッコに叩かれたイメージが強い。しかし両作品の公開当時に違和感を感じていたのは作品を評価している人たちが作品を否定する人たちの主張を歪曲してしまう事だ。

 

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

例えば『進撃の巨人』は確かに原作ファンから「原作と違うから駄作」と否定する意見も多かった。この否定意見に対して「原作と違うから駄作というのはおかしい。漫画と映画は違うのだから別に評価するべきだ」と指摘するのは間違っていない。しかし映画として観た人の否定意見に対しても一纏めにして「原作のキャラが好きな人が『壊された!』と怒ってるんですよ」とするのはおかしいと感じた。

 

スター・ウォーズ/最後のジェダイ  (吹替版)

この現象は『最後のジェダイ』の時も起きた。勿論旧3部作に思い入れが強い人がディズニーとライアン・ジョンソン監督が目指した「誰も観た事の無い新しいスター・ウォーズ」というコンセプト自体に対しての否定意見も多かったし、その否定意見に対して「変化を受け入れられない人が否定的なレビューをしている」と指摘するのは間違っていない。しかし「製作陣がやりたかったコンセプト自体は評価出来るが、作品がそのコンセプトを表現しきれていない」という否定意見に対しても「過去にこだわってる人がいる」とされてしまうのは違和感しかなかった。

 

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そしてこの問題は現在大ヒット公開中の『トイ・ストーリー4』でも起きている。当然本作にも「過去シリーズの全否定だ!」とする否定意見があり、その否定意見に対して「変化を受け入れられない人が否定している」という指摘がある。ただ本作も『進撃の巨人』と『最後のジェダイ』同様に製作陣が描こうとしたテーマ自体に問題があるとは思えない

 

 

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※『トイ・ストーリー2』のウッディがアンディに捨てられる悪魔

『トイ・ストーリー4』が提示したテーマは「捨てられたおもちゃのその先」という過去シリーズでも繰り返し暗示されていたモノだ。今までのシリーズではウッディは「持ち主の子供に愛されて尽くしたい」と願い、持ち主の子供もおもちゃを愛し遊んだ事で関係は保たれていた。しかし本作のウッディは新たな持ち主ボニーに完全に飽きられ忘れられているという設定で、ウッディの想いは一方通行になり人生の生きる目的を失ってしまっている状態だ。おもちゃにはいずれ訪れる「遊ばれなくなる」という宿命に対してウッディがどういう選択をするのかというのが本作の描こうとしたテーマなのだが、脚本の練り込み不足なのかウッディが「おもちゃとして必要とされなくなった」という絶望感が圧倒的に足りていないように感じた。

 

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※ボニーに飽きられたウッディ

では何故ウッディの「おもちゃとして必要とされなくなった」という絶望感が足りていないのかというと、ボニーの演出が中途半端だからだ。映画の演出などからボニーは全くウッディと遊ばなくなった訳ではないようだし、少なくともキャンピングカーのメンバーには入れるくらいの立ち位置は確保していた。つまり置いていかれたリトルグリーンメンよりは遥かにマシな立ち位置にいたように感じたし、ポテドヘッド夫妻やハム・スリンキー・レックスレベルのポジションは維持していたように感じる。別記事でも書いたが、ボニーはウッディをキャンピングカーのメンバーにも選ばれずクローゼットで埃を被っているレベルで突き放す演出の方がウッディがボニーの子供部屋に必要とされていない絶望感を演出する事が出来、「ここに自分が居ていいのか?」という葛藤も観客に共感されやすかっただろう。

 

<追記>初回の鑑賞ではオープニング時にウッディの靴の裏がボニーに変わっている事の方にばかり注目してしまったが、2回目の鑑賞時でオープニングでボニーがウッディとは遊んでいない事を表現していたことに気付いた。ただキャンピングカーで遊園地に行く途中でボニーがウッディとフォーキーで遊んでるシーンがあるからやっぱりウッディに対するおもちゃとしての役割の限界を描く意味では中途半端な演出になってるなと感じた。

 

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※『トイ・ストーリー2』のジェシー回想シーン

またボニーがウッディを飽きた理由の1つに「ジェシーがお気に入りのおもちゃになったから、必然的にウッディは要らなくなった」という設定も必要だったと感じる。正直本作は『3』から大して時間が経っていない上に、『3』の後に発表された短編作品と照らし合わせてもボニーがウッディだけに極端に飽きているという状況は飲み込みづらい。しかし同じカーボーイ人形のジェシーにそのポジションを取られたという事をもっと強調すれば、ラストのウッディがジェシーに保安官バッチを託すシーンはジェシーがエミリーに捨てられた過去がある事も相まってより感動的なシーンになったのではないかと感じる。

 

<追記>2回目の鑑賞で改めて思ったのがボニーがウッディの保安官バッチをジェシーに付け替えている事からもボニーがウッディに飽きたのはジェシーにポジションを取られたと観るのが自然だと感じた。ただ製作陣がジェシーを悪者にしたくないと配慮したのかは分からないが、演出が中途半端に感じた。

 

 

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※『トイ・ストーリー3』のウッディが選択を悩むシーン

ただ1番の問題はボニーが劇中で全く成長していない事だ。その為ラストの展開がウッディがボニーを捨てて女の方に行ってしまったという風に誤解されてしまうシーンになっている。ボニーの成長シーンをウッディが確認して、「本当に自分のおもちゃとしての役割は終えた」と認識してからあの選択を選べば「要らなくなったおもちゃ」の新たな道を提示した傑作となっていただろうが、実際の完成品はその域に全くと書いていい程及んでいないのが残念だ。『トイ・ストーリー3』ではアンディの元を離れる選択をする葛藤と決意をシッカリと描けていたのに…

 

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※『トイ・ストーリー4』で描かれる9年前のボー

また本作はストーリーがテーマに追いついていない以前に、過去シリーズ程アクションに見応えがある訳でもなく過去のピクサー作品の焼き直しのようなシーンばかり。更にギャグシーンも何故かイルミネーションアニメの方向に… またボーがアンディの家を出てからの9年間で変わったというのは理解出来るのだが、9年前の回想から既にバズを差し置いてウッディの隣でおもちゃ救出の任務の最前線で活躍してたみたいなシーンとかバズが「内なる声に従うんだ!」とか言ってボタンから出る指示に従うだけの無能になるなど製作陣が描きたいテーマに合わせてキャラクターがコマとして動かされている感がハンパなかった。むしろボーに関してはアンディの家を離れてからの9年間で「変わった」とした方が意味ある演出になったとすら感じる。またラストのウッディの子供部屋から解放されて自由になったという演出とエンドクレジットの報われないおもちゃ達を子供に届ける役割に従事するシーンのチグハグ感も違和感があった。もしかしたら製作陣の中でも本作のテーマを整理しきれていなかったのかもしれない。ウッディが最後まで貫いた「おもちゃは持ち主の子供に愛されて尽くすのが幸せ」という価値観と今のディズニーが提示したいポリコレ的価値観には大きなズレがあったにも関わらず同じ映画2つの価値観を入れようとしたのもマイナスに働いた部分があったのだろう。

 

<追記>

バズのボタンの指示ばかりに従う設定はもしかしたらウッディの変化に戸惑いを覚えた結果なのかもしれないと後日考えを改めた。

 

 

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※最後まで「アンディのおもちゃ」を辞めれなかったウッディ

最後に『トイ・ストーリー4』が描こうとしたテーマは確実に意義があったと思う。現実問題おもちゃはいつか子供に必要とされなくなり役割を失う。そしてその悩みはおもちゃだけではなく、我々人間にも共通する悩みである。だから本作をテーマにした4作目が製作される事は必然だったのかもしれない。しかし実際に完成した作品はテーマを描ききれておらず明らかな失敗作に陥っている。テーマ選びが良いだけではダメなのだ。そのテーマをシッカリと描ききらなければ… ディズニーが実写版『アラジン』が大成功している横で、まさかピクサーの原点となる人気シリーズの最新作『トイ・ストーリー4』がこんな形で公開されてしまったのは残念で仕方がないというのが正直な気持ちだ。

 

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